やっぱり「人が好き」なんだと思います。(3)

目には見えないことですけど「あります」

家族を食べさせていかないといけないから、何かしないとダメだ。みたいなのは、城さんにないんですか?

大本

城さん:
あの、ごめんなさい(笑)。それは「ない」というか…。もちろん、それなりに「うわ…。ちょっとヤバイんちゃうん…」なんて思うことはありますよ。

そんな風に色々考えたりもするんですけど、ただ、基本的に「自分達が楽しい、面白い仕事やれたらええな」っていう想いが強く、「なんとかなる!」と、根拠のない自信は夫婦共に常に持ってますね。

そんな構えのせいか、上から目線に聞こえるかもしれませんが、自分達にそぐわないお客様のご来店はあまりないですね。なんかこう、店に見えないカーテンが出来ているのか分からないですけどね。

まさに「城版ATフィールド」ですね。(笑)

大本

城さん:
なるほど(笑)。

例えば、足を運ぶってこと、ひとつとっても色々ありませんか? たとえば、神社でも、行きたいと思っていても「縁がない神社」には行けない…みたいな感じのことと、店も同じようなところがあると思うんです。縁があるところには呼ばれるっていうかね、そういうのって目には見えないことですけど「ある」と思うんです。

そう言う意味では世の中ってなんかうまいこと出来てるなぁと思います。

昔。僕が高知にいた時の話なんですけど、当時勤めていた米屋がホンマに手広くやっていて、「すごい米屋」さんだったんですよ。色んなところに米を運ぶんですが、たまに米を運んでいるのかその辺の砂利を車に積んで運んでいるのか、忙し過ぎてもうよくわからなくなるときがあるくらいでしたね。

不適切かもしれませんが、顔の見えない何百人、何千人に対する商売、金額が高いか安いかで判断するだけみたいな商売やったりをしていると、やっぱりそれに見合ったお客さんが来てたと思います。

クレームも、信じられへんようなことがいっぱいありました。もちろん、その十何年間の経験や知識があったからこそ今の自分があるわけですが、そんなお客さんと日々接することに、少しずつ違和感を持ちはじめ、疲れ始めていたのかもしれません。

まぁ、やっぱり僕は元々、農家さんと直接(仕事、取引を)やっていることが大きかったかもしれません。農家さんって、めちゃめちゃ頑張ってるんですよ。それで、お米は1年に1回しか出来ないわけですから、言うたら、いっつも大博打なんですね。台風ひとつで収入ゼロにもなりますし、出来がよくない、土がアカン、ハウスが飛んだ…なんてことがあると収入はマイナスですから。だから、農家さんのために高く仕入れて高く販売出来るようになるには、どうしたらいいのかはよく考えていましたね。

それに、何年か前にフェアトレードって流行りましたけど、自分達、食の流通に携わる者は、果たしてどう考えているんだろう?世界的な食の乱れ、輸入量よりも廃棄する量が多い日本の食の問題など、ようわからんようになってしまって…。それやったら、「ちゃんとしたものを適正な価格で仕入れて適正な価格で販売出来るように」っていうことを考えなあかんなっていう想いがすごくありましたね。

それは、この店をオープンする前からですか?

大本

城さん:
そうですね。高知におる時からずっとそういうこと(米屋としてフェアトレードとは何か?ということ)は思っていましたね。かといって、適正な価格とは?無農薬だから、身体に良いからだけではなくて、結局、美味しさに欠けると意味がないですよね?結局食べる人がハッピーじゃなかったら、残念ながら、考え方、栽培方法、取り組みなどなど、無意味になりますから。

知らんことばかりで面白かったんです

もし、差し障りなければお答えいただきたいなと思うんですけど、城さんは「仕事って嫌ならやめたらええやん」という考え方を基本的にお持ちじゃないですか。

なのに、相当ブラックな環境で13年間も頑張った人でもありますよね。

なぜ、そこでそんなに頑張れたのか。

なぜ、仕事を嫌じゃないものとして取り組めていたのか。

そのあたりを教えて頂けませんか?

大本

城さん:
嫁の実家が高知県の米屋さんやったっていう、ただそれだけですよ(笑)。

結婚当初、ずっと豊中(大阪)に住んでたんです。で、当時は箕面(大阪)のアパレルに勤めていたんですけど、不況のあおり?入社1年ほどでクビになり、その後すぐ会社も倒産。そうそう、結婚して半年後くらいの事でした(笑)

そしたら、全然それまでしゃべったことはなかったんですけど、嫁さんの親から、ゆくゆくはこっち(高知)に来てもらいたいみたいな話がそのタイミングで出ましてね。で、向こうのお父さんの勧めで、「(高知に来る前に)流通関係も学んだら」とのことで、2、3年ほど流通関係に勤めてから高知に行きました。

その大阪時代、大手ディスカウント店に勤めていた頃の話ですが、今思い返すと本当に申し訳なく、恥ずべきお話ですが、お米を食物としてではなく、単なるモノとしてしか扱っていませんでしたね。もう足で蹴っているくらいの感じでしたね。それが今や本当の生業になるなんて…バチ当たりの事をしてました(汗)。

26歳の夏、嫁と娘の3人で引っ越し、高知ではまず3年間、工場勤務に就きました。土佐弁も農業的な言葉もようわからんままに。体力だけ人並み以上にあったので、バリバリ動き回ってましたね。

工場ゆえに、いつも農家さんがお米を売りに来るんですが、工場長の横でやり方とか考え方とか教えてもらったりとかが、僕には全く知らんことばかりでほんまに面白かったんです。

で、そこに、たまにポーンと美味しいお米が来たりするとね、もうワクワクして来てね、そんな時は生産者さんの住所を調べて、子供たち連れて会いに行ったりしてました。日曜しかない休みを、その頃はそんな感じで使ってましたね。山のクネクネ道は、子供にとって、やっぱり過酷だったようで。数回でついて来てくれなくなりました(泣)。

働き始めて3年が近づいた頃には、工場で色々とまかせて頂けるようになり、時間をつくる事が出来はじめた頃、午前中で仕事を終わらせ「ごめん。俺ちょっと昼から出ていくわ」なんて言って勝手に営業に出て行くようになってね(笑)。

そのうち営業部に人がいなくなって、いつの間にかうまいこと営業部になってました。

そこからもう、手当たり次第に一日何十軒と高知の狭いところを回ったりビラ配ったり飛び込み営業をしたりしました。それがまためちゃくちゃ面白くってですね。(笑) 次第に愛媛や香川、徳島や大阪や九州でも「ちょっと行ってきますわ」って感じで、他府県にも行くようになりました。

お得意様の量販店との商談とかでね、「他店が5kg1,280円で売れるんやで…」なんて言われ、「いやぁうちは1,480円しか無理やな…どうしたらええねん…」などなど、仕入れや販売数量、利益など、電卓をたたきまくっていましたね。(年下の若いバイヤーにいつも素敵な笑顔を振りまいてましたけどね)

どの原料を使い、どうブレンドしてどう利益を乗せてどれだけ販売して…と、毎日試行錯誤しました。高知県のキャパは決まっているにもかかわらず、県外資本に攻められてるやん、ほな県外に行かなあかんのちゃうか…とか、色々考えたりしましたね。

⇒vol.4お米の世界の技術の話